0⇔1プラクティショナー ゆっきーのストーリー

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2019年8月8日に某SNSで公開した記事のシェアになりますが、どうぞお付き合いください。

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長文告白です

私は長いことうつ病を患ってました
適応障害も持っています

元々ストレスが積み重なっていたところに
結婚後のストレスが引き金になって

23歳の時に発症

38歳までの15年間
波がありながらも苦しみ続けました

ひどい時は風呂も入らず
部屋に引きこもりずっと布団の中

子供の顔もみたくない

動くこともままならないので
当時の旦那様が
着替えさせてくれてた記憶があります

発症したのはただのきっかけに過ぎなくて
(でも相当きつかった)
そもそもの原因の基盤は
それまで生きてきた環境にあった

まず父は非常識でとても怖い人です
いつなにで怒りだすか分からない

もちろん暴力もあるので
今で言えば虐待です

すべて本人の都合で良い悪いが決まるので
予測は不可能、何もかも機嫌次第

仕事しない、お酒飲む、どこいっても喧嘩を始める
おまわりさんも普通に家に来ます

飲酒で免許はないので無免許運転
お酒飲んで車ぶつけるとか日常茶飯事
相手がいても力でねじ伏せるので問題ならない

子供会の行事で出かけても
その出かけた先で喧嘩をおっぱじめる

年にあるかないかの外食も
店内で喧嘩が始まる

授業参観のときは教室の中で
叩かれ、みんな目が点

タクシーの運転手殴って
パトカーで帰宅とかね
パトカー乗れて嬉しいだろ的に話す父
喜ばなければならない私

どこいっても怒るし怒鳴るし
嫌で仕方ありませんでした

もちろん私も毎日何かしら怒らて
叩かれるのもしょっちゅう

ちょっとこづかれたでけでも
だいぶ痛い
顔はやられないけど
頭がボコボコなってました

妹がいるんだけど
甘え上手なのか
妹が悪さしても
姉の責任で私が怒られる

妹は学校終わって遊びに行けるけど
私は宿題も終わったのに
終わってないと決めつけられダメと言われる

機嫌を伺ってオッケーが出た日だけ
遊ぶのも許される

テレビはゴールデンタイムは野球で
なくても自分の好きなものは見れません

流行りも分からず
みんな持っているものも
私だけありません

小学校だとこれが何を意味するのか
分かる人は分かるかな

いつもビクビクしてる上に
物質的環境もあるわけで
ターゲットになるよね

集団無視、仲間はずれとか当たり前
シューズに画鋲とか普通にありました

まだまだあるけどきりがない

とりあえずこんな父が
朝から晩まで家にいるわけだから
心休まる暇はない

して母

それと真逆にすごく真面目で超がつく心配性
いつも人から言われないように言われないようにと
父の理不尽にも10年文句言わなかった辛抱の人

そこはすごいけど、子供に対しては
自分の言うことは間違っていなくて
基本的に1から10まで言う通りでないと
おかしい子とされる

頑張る教、ちゃんとしなけれればならない教
普通教の大信者

あれダメこれダメ
してはいけないこと気をつけることの
オンパレード

失敗してはダメ
こうなったら大変なことになる
人と違ってもダメ飛び抜けてもダメ
とにかく母の範囲内でないとダメ
ことごとく異常なレベルで刷り込まれた

そのせいで保育所の先生からは
お母さんが言い過ぎで
私はいつも何かを気にしていて
心から遊べていないと指摘をされた

母は良かれと思って
一生懸命教えたつもりだろうけど

はみ出た部分は押し付けにしかならず
ことごとく可能性を潰し
枠内に収め、いかにコントロールできるか

上の通り父が働かないので
母が家事育児仕事
父方の畑や田んぼの手伝いまで
すべてやっていた

かなり大変だったと思う

遊んでもらった記憶も無ければ
いつも疲れて暗い顔で
母が笑っていた記憶はない

私は絶対的に言うことを聞く
良い子でないといけない
母が困るから

人から物もお小遣いももらってはダメ
なにかお世話になってもダメ
なぜならお返しをしないといけなくなるから

貧乏でそれができないから
とにかくダメなんだと

父が居て無理やりお小遣いを
受け取らされた時は
悪いことをしたと号泣した

スーパーでの買い物
周りは好きなものを買ってもらっている中
ひたすら我慢

たまにお菓子を買ってもらえるときも
1つだけと言われたら私は1つだけ

だが、妹は違う
欲しい物があれば
その場でひっくり返り
ギャーギャー泣きわめく

しかもけっこうしつこい

どうしても買えない時もあるが
泣きわめいた挙げ句
妹だけ買ってもらう
もしくは1つのところが2つになる

私はと言うと、母は
お姉ちゃんごめんねという

事情が理解できる私は
いつも聞き分けが良かった

母の申し訳無さそうな顔を見て
我慢

おかげで欲しいから買ってと
言ったことは一度もない

だけど泣きわめいたりワガママを言う妹は
愛情が足りてないからと許される

父も妹は可愛がる
私は何をやってもダメだと言う

お前は馬鹿だから
何もできないから

母も一緒で
あんたができるわけ無いでしょと
どちらにしても褒められた記憶はない

あ、ちなみに父から虐待受けても
母が庇ってくれることはないです

なぜなら、お母さんが出ると
余計にあんたたちがやられるからと

色々あった中、私が9歳の時の6月
母は耐えかね出ていきました

なんで一緒に行かないのと思う人もいるだろうけど
それも理由があり説明してたら長くなるので

母が出ていってからは
更にひどい生活が待ってました

酒飲んで仕事もしない父の元にいるんです

ライフライン止まりますよ
酒代になってお金払わないんだもん

電気止まったとき
懐中電灯つけたら叩かれます
止まってることが近所にばれるだろって

今まで以上に必要なものは
与えられなくなります

お年玉もちょっと貸せと二度と帰って来ません
母が貯めていたものも一瞬でお酒に変わりました

高校受験のときには
担任に受験代を借りろと言われ借りた
どんな気持ちで担任に話したか

こんな感じが日常
出来事上げていったら
すごいことになります

父に怯えるのも
母のするべきがんばり教も
能無しって言われるのも
妹との格差も

日々ずーっと

15歳の夏、父の虐待から
交番まで見つからず逃げ切りました

このとき逃げた私が見つからず交番に現れた父
ガンガン怒鳴って帰ろう言ってましたが
お巡りさんが対応してくれてホッとしたのを
覚えてます

やがて本所から刑事さんが来て
奥の部屋で話してたら
父の素行も無免許も知ってると

なんで捕まえてくれないんだよ!
と強く思った

私はそのまま私服の刑事さんに連れられて
母のところに行きました

それで解決と思ったら大間違い

父の恐怖は無くなったものの
あとに残ったのは母の呪縛

あれをしてはいけない
これをしてはいけない

ああするべきこうするべき

あんたたちのために
こんなに苦労して育ててきた

子供から父親を奪ったらダメだと
10年も耐えたのに

お母さんはあんたたちのために
こんなに苦労して頑張ってきた

わかりますか
私達子供が居たがために
自分の人生は台無しになった

あんたたちさえ居なければ
こんなに苦労することは
なかったのにってこと

私が産まれたときに
喜んだ人間は一人もいなかった

祖母も私の面倒を見るのを嫌がった
と母に聞かされる始末

こんなんばっかり

できていないことを
日々責められて

母の考えと違えば
頭のおかしい子と言われる

大人になってもどれだけ言われたか

できないと言われ続け
できないことを探し続け

年月が経てば経つほど
自分の価値のなさを実感する

高校まで行かせてもらったので
(私に選択肢はなく
卒業しなければならない義務だった)
それなりにしてもらってはいる

が、全部自分の選択ではない
しなければならない中で
チョイスしたに過ぎない

私に権利は一切ないので
夢も希望もしたいこともない

あるはずがない

ひたすら母基準のしなければならないことを
刷り込まれたことを最低限こなして生きていた

結婚して子供が産まれてもそれは変わらず

そして結婚後の世界は、世間で言う常識や正しさが
全く違う世界だった

それも重なって限界で動けなくなったんだけど

それからも色々ありすぎて書ききれない

とにかく、何がキツかったかとうと
両親の影響からの恐怖、恐れ
自分は自分で居てはいけない

こういう出来事がたまにじゃなく
日常的、断続的で休まる暇がない

誰も助けてくれないどころか
理解者ゼロ

可哀想でも父が怖くて
身内も無視

環境的にもガス抜きの部分は一つもなく
誰にも思いを言うこともなく
味方も一人もいない

幼少期は大人になってもかなり影響します
環境が良くなくても
1人でも存在を許し認めてくれる人間が
居るのと居ないのでは
影響の仕方が天と地くらい違う

これは今、自分にそういう友達ができたから
どれだけ苦しかったか分かること

いつもキャパシティーいっぱい
いつも不安
いつも何か怖い
いつも落ち着かない
嫌われてはいけない
自分以外の人間の
機嫌をとらなければいけない

リラックスは皆無
唯一楽なのは寝てる時

一見普通に見えるが
中では大変なことが起きてるので
いつもすっごいしんどい

大人になってからの方が
自分で自分を責め続け
無能さをほじくる作業をし

自由なはずなのに自由ではなく
やることは増える責任も増える
そしてまたできない自分を責め

分かって欲しくて話しても
大人なのに何言ってんの的に
甘えてるだけと言わんばかりの返答
どんどん苦しむのです

沖縄に来たのもうつ症状がひどくなり
仕事もクビになったから

沖縄に来てからもひどかった
もう気が狂ってるから

この頃のでき事
1年後に妹も子供連れて沖縄に来て
家で生活していた

詳しく書くと大変なるから端折るけど
この妹も曲者
私の彼氏を連続して手を出す
そして操り私を陥れる

これ沖縄に来てからと思っていたが
前の旦那様もやられていたよう
あとから分かったこと

今考えるとなんで気づかないんだと思うが
そもそもが狂ってるから無理なんだよね

いやーまだまだあるけど
随分長くなったのでもうここまで

こんだけでも私の人生の
ほんの一部分の出来事です

今だから異常だと気付けることも
含めたら相当ある

ちなみに沖縄に来て
2回ほどオーバードーズ(薬を大量摂取)で
死のうとしました

2回とも病院に運ばれたようで
死ねませんでした

救急車だったのか
誰かが連れてったのか
全く記憶にありません

その後精神病院に入院
少しの間柵の中で過ごしました

だけども、妹にはうつ病は
なれる環境にある人がなるものと言われ

こういうのを知っている友達にも
現代人は病院行けばみんな病名が付くものよ
と言われ

本当にここ最近まで
自分の気持を理解してもらえることは
ありませんでした

2年ほど前にメンタルを学び始め
徐々に良くなってはきていましたが

同じメンタルを学んだ人たちと
自分との違和感をずっと感じていました

なんで私はあそこまで行けないんだろう

それは最近気がついた
そこでなんとかなる
レベルじゃなかったから
無理があった

転機があったのは去年
一人の女性に出会いました

彼女がやっていたのは
キネシオロジーという
筋肉反射テストを使って
潜在意識と対話すること

最初は何かもわからないまま
対面したときに
それなんですかって聞いた
めっちゃ失礼な私

このキネシオロジーについては
後日また書きますが

潜在意識との対話で
かなりいろんな事が出てきました

私はとても根が深く
先月のセッションで
やっと一番根っこにたどり着けた

その中でも私はここにいる
と強いメッセージとともに

私は胎児のときにすでに
「感じる」という部分を分離していた

これはすべて母を守るため
そして自分が生きていくため
私は母のことが大好きで
自分を生贄にして母を守ってきた

自分は感情がないものと思っていたが
分離していたからだった

セラピストもびっくり
こんなの初めて
さすがに胎児の時は経験ないと言われ

私はやっと自分の苦しさを
自分で認めることができた

38年生きてきて初めて
私しんどかったー!
辛かったー!って

胸張って言っていいんだと
自分を許すことができた

この2019年7月25日まで
私は母の生贄として生きてきた

そして生贄の人生を終わりにして
自分の人生を始める

今日、8月8日、この日に

辛かった過去を開示して
私は私を開放します

本当の自分は産まれたばっかり

私は幼少期をこれからやり直します

周りの人に親になってもらって
ときには先生になってもらって
甘えます

無邪気に遊ぶということを
やってみようと思います

ワガママも
言ってみようと思います

あれ欲しいこれ欲しいも
言っていいんだ

私を可愛がってくれる方
大歓迎です

そしてここまで読んでくれた方
ありがとうございます

「私はここにいる」

これから愛のあふれる
人生を歩むと決めた私を

どうぞよろしくお願いします

ゆっきー






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